戦没者慰霊碑

国のために命をささげた勇敢な人々と殉教者への国民的な賛辞として、戦没者慰霊碑はデリーの中心部に誇り高くそびえています。手入れの行き届いた芝生があり、国のために命をささげた勇敢な英雄たちの胸像で飾られた広大な記念碑は、戦争記念館を訪れる人々の深い誇りを呼び起こします。1962年の中印戦争、1947年、1965年、1971年の印パ戦争、スリランカでのインド平和維持軍作戦、そして1999年のカルギル紛争で命を落とした兵士が祀られています。記念館の花崗岩の壁には殉教者の名前が金で刻まれています。壁自体が象徴的で、マハーバーラタでチャクラヴィと呼ばれていた、古代インドの戦争形成を象徴するようにデザインされています。記念館には、インド軍の重要性を示す4つの同心円状の壁、つまりチャクラ(アマル・チャクラ、ヴィエルタ・チャクラ、チャグ・チャクラ、ラクシャク・チャクラ)があります。記念碑の聖域には、チャクラヴィの始まりを示す高いオベリスクがあります。このオベリスクはアマル・チャクラ (不死の輪) にあり、殉教者の不滅の精神を象徴する永遠の炎を灯しています。二つ目は 「ヴィエルタ・チャクラ」 で、軍隊が行った勇敢な戦いを描いたブロンズの壁画が展示されているギャラリーになっています。次に、名前、連隊名、識別番号が記された花崗岩の石版が兵士一人につき1枚ある、チャグ・チャクラ (犠牲者の輪) があります。最後は 「ラクシャク・チャクラ」 (保護の輪) で、市民に安心感を与える象徴的な木の列で構成されています。それぞれの木は国境を守る兵士を表しています。記念館にはまた、戦功を挙げたことで授与される最高の軍事勲章であるパラム・ヴィル・チャクラの21人の受賞者の像もあります。これらは、緑豊かな緑に囲まれたパラム・ヨダー・スタールの指定地域に保存されています。これらの中には、現在生存している3名の受賞者の胸像も含まれています。さらに、戦争記念館には、雨水を収集するために設計された145万リットルの貯水タンクからの水を使用する複数の噴水を含む34の水体があります。ラージパスとデリーの美しい中央展望地の近くに位置する戦没者慰霊碑は、訪れるべき素晴らしい場所といえるでしょう。

戦没者慰霊碑

キーラ・ライ・ピソラ

デリーの歴史的至宝である、ラル・コット(Lol Kot)とも呼ばれるキーラ・ライ・ピソラは、ライ・ピソラの愛称で呼ばれるラジプールの王、プリトヴィー・ラージ・チョーハン(Prithvi Raj Chauhan)によって建てられました。この巨大な城砦遺跡には、過去の壮麗さの痕跡が覗え、クトゥブ・ミナールやサケット、バサント・クンジ、メローリー、キシャンガルなどの地域周辺から見ることができます。キーラ・ライ・ピソラは、以前は、防壁に囲われた都市でした。この都市は、デリーの最初に生まれた都市であるラル・コットから延長して8世紀にトマール王が建てたと言われています。この城砦は、プリトヴィー・ラージ・チョーハンがクトゥブブッディーン・アイバクに敗れた時に、マムルークの統治下に入ったとされています。それ以来、この城砦は、修復が行われることはなく、そのままの状態で残っていました。現在は、インド考古調査局(ASI)の管理下にあり、意義ある研究に役立てられています。

キーラ・ライ・ピソラ

国会議事堂

世界最大の民主主義国インドの政治の中心地である国会議事堂は、デリーで最も素晴らしい建物の一つです。シンメトリー建築の手本ともいえるこの建物は、球形で、ラージヤ・サバ―(上院)とローク・サバ―(下院)、中央図書館を備えた3つの半円形の議会所からなります。美しい庭園や噴水に加え、約144本の柱がこの建物を一層美しく見せています。この建物の境界となっている壁には複雑な幾何学模様が彫刻された砂岩のブロックが使用されていることが特徴となっています。この建物に入るには、正式な許可を得る必要があります。

国会議事堂は、1921年に建てられ、その礎石はコノート公爵によって敷かれ、アーウィン卿とその妻によって1927年に竣工されました。また、この建物は、ハーバート・ベイカ―によって設計されました。インドの憲法は、この建物で起草されたと言われています。

国会議事堂

フィールズ・シャー・コトラ・フォート

デリーで最も古い構造物の一つであるフィールズ・シャー・コトラ・フォートは、1354年にスルタンであるフィールーズ・シャー・トゥグルクによって建てられました。歴史によると、この城砦は、統治者が水不足を理由として、首都をトゥグラカー・バードからフィロザバードへ遷都する判断をした時に建てられました。そのため、その目的にかなうように、この城砦は聖なるヤムナー川の岸辺に建てられました。この城砦内には、いくつかの壮麗な庭園やモスク、宮殿があります。城塞の入り口には統治者の名前が刻まれた巨大な鉄製の門があり、境界線となる壁は高さ15mにもなります。この城砦の多くの構造物は遺跡となっていますが、階段井戸(バーオリー)は現在も良好な状態で保存されています。この城砦で興味深い見どころは、フィールズ・シャーがアンバラからデリーに移動させたアショーカの尖塔です。この尖塔は高さ13mで、中にはアショーカの道義が刻まれた碑文があります。

フィールズ・シャー・コトラ・フォート

オールド・フォート(プラーナキラ)

16世紀に建てられたこの石造りの城砦は、マハーバーラタ叙事詩にも記載があり、その近隣にはインドラプラスタという伝説の都市の遺跡があると言われています。この城砦内を掘削した結果、この地域には紀元前約300年にはもう人々が暮らしていたということが分かっています。

ほぼ長方形の城砦の厚い壁は、その上部に凸壁を有しており、両側に稜堡を備えた3つの出入口があります。昔は、この城砦は、この城砦の東側を流れるヤムナー川とつながった広い堀に囲まれていました。北門は、イスラム式の尖頭アーチとヒンドゥー式のチャトリや腕木を組み合わせて作られています。この城砦の壁と出入口は、ムガル皇帝フマユーンにより建てられ始め、彼の作品であるこの城砦は、フマユーンに勝利し、16世紀中頃にデリーを統治したアフガンの統治者であるシェール・シャー・スールがその建設を引き継ぎました。城砦内には、階段井戸や、図書館が併設された観測所として使用された塔、モスクがあります。フマユーンは1533年に建設を開始しましたが、その数年後にシェール・シャーに敗れました。フマユーンはその約15年後にこの城砦を再度占領しますが、そのすぐ後に図書館の階段で足を踏み外して転び、死亡しました。毎晩開催される光と音の見事なショーがこのストーリーを今も伝えています。

オールド・フォート(プラーナキラ)

シャフダル・ジャング城

時を経ても変わらない姿をとどめるサフダル・ジャング廟は、写真のように美しい背景を背に、優美にそびえています。大理石と砂岩で作られた美しい建築の代表例ともいえるこの廟は、当時の皇帝からサフダル・ジャングの称号を与えられた、有能な行政官にして政治家のムハンマド・ムキム・イン・ホラーサーン(Muhammad Muqim in-Khurasan)を弔って1754年に建てられました。中央に大きなドーム型の建築物があるこの廟は、エチオピア建築家により設計されました。この廟は、高台の上に建てられ、大きな正方形の庭園の中に収まっており、囲んでいる庭園の各側面の幅が280mとなっています。この廟の前面の設計は複雑で、裏にはいくつかの部屋と図書館があります。また、廟では、たくさんのアラビア語で書かれた碑文を見ることができます。サフダル・ジャングと彼の妻であるアマット・ジャハーン・ベーグム(Amat Jahan Begum)の墓室は、この廟の地下室にあります。この廟全体は、インド考古調査局(ASI)が管理しています。

シャフダル・ジャング城

トゥグラカー・バード

デリーの郊外に位置するトゥグラカー・バードは、14世紀にデリーを統治していたトゥグルク朝の首都であったこともあり、古代遺跡が点在しています。この都市では、立派な防壁が周りを不規則に取り囲んでいます。トゥグルク朝の代表的な遺跡が、高さ10mから15mで、最上部が胸壁となっており、最大2階建ての円形の稜堡により増強されている、野石を大量に使用して作った傾斜のある都市壁です。この都市の見どころは、1320年から1321年にかけてギヤースッディーン・トゥグルクによって建てられたトゥグラカー・バード・フォートです。この城はアラーヴァリー山脈の丘の上に位置し、その城壁は6kmにもわたります。この城は、頻繁に起きたモンゴルによる攻撃から自国を守護することを主な目的として建設されました。

この都市の見どころは他に、人工的に造った大型の貯水池やアディラバードの要塞などです。

トゥグラカー・バード

ラジガート

国父としてあがめられているモーハンダース・カラムチャンド・ガーンディーを慰霊するために建てられているラジガートは、彼が1948年1月31日に火葬された場所に建つ大理石の平らな構造物です。ヤムナー川の岸辺に位置するラジガートは、木々が点在する手入れの行き届いたみずみずしい芝生に囲まれています。ガーンディーの遺体はこのガートで焼却されました。

ここで三味の境地に入ると、自分自身の本当の姿が映し出され、自分の純真がにじみ出ます。彼の遺体が焼却されたもとにあるレンガの平らな構造物と黒い大理石の平らな構造物は、大理石のフェンスで囲われています。ガーンディーが最後に発した言葉である「ヘイラム(He Ram)」という言葉がこの慰霊碑に刻まれています。そして、永遠の炎がすぐ近くに灯されています。

ラジガート

ティーン・マーティ・ハウス

旅行者が周遊する中で人気の歴史的な立ち寄り場所であるティーン・マーティ・ハウスは、かつては、1964年に逝去するまでの16年間をここで過ごしたインドの初代大統領であるジャワハルラール・ネルーの官邸でした。その後、このハウスは、彼を慰霊するものとして捧げられました。この建物は、3人の兵士の像が構内に立っていることから、「ティーン・マーティ」と呼ばれています。これらは、マイソールやジョードプル、ハイデラバードの槍騎兵を意味します。これらの像は、第一次世界大戦中にシナイ半島やパレスチナ、シリアなどで命を落とした勇敢な兵士らに敬意を表するしるしとして1922年に作られました。

ティーン・マーティ・ハウスは、英国軍の最高司令官の邸宅として1930年に英国人建築家、ロバート・トル・ラッセルによって設計されました。旅行者は、ネイル―記念博物館・図書館を訪れることもできます。ここでは、当時使用されていたのと同様の工芸品や家具を配して再建したネルーの当時の古い事務所の展示が見られます。この図書館には現代のインドの歴史を遡るたくさんの蔵書が蓄えられています。ほかには、世界中の旅行者が注目するネイル―・プラネタリウムも見どころです。プラネタリウムの天空劇場では、興味深いショーが見られます。

ティーン・マーティ・ハウス

アグラセン・キ・バーオリー

喧騒としたデリーの中にある古風で趣のある閑静な場所であるアグラセン・キ・バーオリーでは、デリーの歴史を覗くことができます。この構造物は、長さ60m、幅15mの歴史的な階段井戸です。遺産的な特徴を有し、複雑な構造を持ち、静かな環境の中にあるこの構造物は、映画制作者にとっても魅力的に映り、スルターンやPKなど映画の背景としてもしばしば使用されています。この奥底の深い階段井戸を降りていくと、冷涼な空気に包まれます。この構造物では、かつて幽霊が出没したと伝えられていることを思い出すと、背筋が寒くなります。伝説によると、このバーオリーの中の水は、黒魔術に満たされており、それを目にした者は昏睡状態になり、たちどころに生命の危機に瀕すると伝えられています。このバーオリー(階段井戸)には108段の階段と両側にアーチ状の壁龕のある3階層があります。

現在、この遺跡は、インド考古調査局(ASI)によって保護されています。誰が造ったのかについて、ほとんど歴史的な記録がありませんが、伝説の王であるアグラセンによって建設され、14世紀にアグラワールの共同体によって再建されたと伝えられています。

アグラセン・キ・バーオリー

コノート・プレイス

デリーの中心地にあるコノート・プレイスは、ジョージアン様式の建築術に基づき設計された遺産群のある地域です。たくさんのレストランや高級店、小売店、劇場、本屋などが立ち並ぶこのマーケットは、デリーの大半のアクティビティの中心地です。2つの同心円状に広がるコノート・プレイスは、ぎらぎらしたネオンサインを冠した様々な国際色ある店舗やカフェが鮮やかなコントラストを見せるのが昔から特徴となっています。タイミングが良ければ、たくさんの生徒や会社員が通りにぞろぞろと現れ、行商人からチャートを買って味わいながら、爽快な天気を満喫しているところを見ることができます。

コノート・プレイスが売店や店舗でごった返す以前には、この場所は映画の中心地でした。1920年代には、ロシアのバレイやウルドゥー語の劇や無声映画がここの様々な劇場で上演・上映されていました。リーヴォリシネマズやオデオンシネマズなどここの遺産的映画館は今も残っており、これらの大きな映画館で映画を見るのは楽しい体験になります。

コノート・プレイス

ラシュトラパティ・パワン

インドの大統領の正式な邸宅であるラシュトラパティ・パワンは、デリーで特に注目の歴史的建造物です。エドワード朝バロック様式の建築術で建てられたこの建物は、遺産と権威を象徴する古典的なモチーフで飾られています。ラシュトラパティ・パワンは、321エーカーの面積に広がり、ゲストルームや客殿、事務所、訓練場、スタッフやボディガードのための住居を含めて、340室を備えています。

ラシュトラパティ・パワンは、1929年に建設され、官邸と副首相の邸宅とも呼ばれています。以前は、英国総督の住居でした。この驚嘆に値する建物は、17年の歳月をかけて建設されました。この建物は、エドワード・ラッチェンスとハーバート・ベイカーの共作です。このパワンにある有名なムガル庭園は、15エーカーの面積の土地に広がり、159種類のバラや60種類のブーゲンビレア、その他たくさんの種類の植物が咲き誇っています。ラシュトラパティ・パワン博物館(RBMC)も訪れると興味深い場所です。主な見どころは、実物大の馬が大統領用の古いバギーを引いているところです。また、ヨルダンの王が元首相であるラジーブ・ガンディーに贈ったメルセデスベンツも鑑賞できます。歴史を詳しく知りたいなら、旅行者はパワンの写真や机の上に展示されている自由を求める運動が写された希少な写真を見ることもできます。構内のギフトカウンターでは、インドの大統領が世界の様々な国々から受け取った贈り物を見ることができます。旅行者は、様々な大統領がスピーチを行う際に3Dのホログラフを投影するために使用された特別な四角い箱に特に感動するでしょう。博物館の中のいくつかの展示窓には、大統領らの私物が展示されています。インドの政治的リーダーになる遥か前に、マハトマ・ガンジーは、アーウィン卿に招待されてラシュトラパティ・パワンを1931年に訪れましたが、その時に、彼は英国人に対しての抗議のしるしとして、アーウィン卿と一つまみの塩を交わしました。この会議は最終的に1931年に結ばれるガンディー・アーウィン協定となって結実します。

ラシュトラパティ・パワン

ジャンタルマンタル

1724年にジャイプールのマハラジャ・ジャイ・シング2世によって建てられたジャンタルマンタルは、同君主によって北インドに建てられた5つの天体観測所の1つです。幾何学的な形状を見事に組み合わせたこの建築物は、世界中の建築家や芸術家、歴史学者の注目の的となっています。この天体観測所は、肉眼で天文位置を観測する目的で設計されました。同観測所は様々な文明で共通の伝統的なプトレマイオスの位置天文学を受け継ぐものの一つです。

ジャンタルマンタルには、惑星や太陽、月の動きやそれらの時間を予測するために使用されていた13個の天文学機器を備えた建物があります。天体に関して正確に理解するために天文学的な表やチャートを作ります。ジャンタルマンタルの主な見どころは、ミシュラヤントラやサムラートヤントラ、ジャイプラーカッシュヤントラです。サムラートヤントラは、大型の日時計で、地球の軸に平行に建てられており、計時に利用されます。ジャイプラーカッシュヤントラは、半球のような形状をしており、恒星の位置としるしの位置を合わせるために使用されます。一方で、ミシュラヤントラは、その年で最も短い日や最も長い日を見つけるために使用されます。これらの機器構造物はすべてレンガや野石を用い、石灰を塗って作られています。旅行者は、ジャンタルマンタルの東側にある小さなバイラヴァ寺院を訪れることもできます。

ジャンタルマンタル

インド門

国のために命を犠牲にした勇敢な兵士に敬意を表して建てられた壮麗なアーチ門であるインド門は、デリーの歴史的建造物の一つです。砂岩を使用して建てられた高さ42mの門は、この種の門としてはインドの首都において初めて建てられたものです。門の壁面には、1919年のアフガン戦争において北西辺境地域で命を落とした13516人の兵士の名前や第一次世界大戦で殉教した90000人のインド軍兵士の名前が刻まれています。この慰霊碑の土台は、バラトプルの赤い石材を使用して建てられており、インド門の構造は、フランスのエトワール凱旋門に似通っています。

インド門は、手入れの行き届いたみずみずしい芝生に囲まれ、家族がピクニックをするのに人気の場所となっています。お勧めの訪問時期は、やわらかい金色の光に包まれ、暗く星の少ない空のもと輝く夜間です。

インド門

赤い城

デリーの中心部に位置し、細かい赤砂岩でできている荘厳な赤い城は、ムガルの建築的な遺産を伝えるものとしてそびえています。ユネスコ世界遺産であり、キラ・ムバラクとしても知られる世界で最も美しい遺跡の一つであるこの城には、宮殿やホール、モスクなどがそろっています。

ムガル皇帝であるシャ―・ジャハーンにより当時の首都シャージャハーナバードの宮殿城塞として建てられた赤い城は、周囲を取り囲む巨大な城壁で有名です。城塞には、イスラム式、ペルシア式、チムール式、ヒンドゥー式を一体的に融合させた建築術が用いられています。主な見どころは、シャー・マハルとしても知られるディワニハス(Diwan-i-khas)や聴衆のホールとしても知られるディワニアム(Dewan-i-amm)、イムティヤズ・マハルとしても知られるラング・マハル(Rang Mahal)などがあります。ここにある遺跡は他に、王室の音楽家らが演奏してロイヤルファミリーの到着を知らせた場所であるナウバット・ハーナ(Naubat Khana)(ドラムハウス)や、ハンマーム(王室の浴場)、サマンブルジュ(皇帝が自分の下巨に自分の姿を見せた塔)などがあります。かつてはムガル皇帝が週末に力を蓄える場所であったこの城は、1739年にナディール・シャーが率いるペルシア軍による略奪にあいました。侵略者は、シャー・ジャハーンが金と宝石(貴重なコ・イ・ヌールを含む)を使用して作った豪華な孔雀の玉座を含む城の宝の大半を強奪していきました。

赤い城

クトゥブ・ミナール

デリー・スルターンと同じくらい古い歴史があるとされる代表的な都市、クトゥブ・ミナールは、世界で最も背の高いレンガ造りのミナレットであり、同市をスカイラインとしてそびえています。ユネスコ世界遺産でもある、高さ73フィートの5階建てのこの塔は、中世時代からインドで最も壮麗な建物の一つとされています。同塔の下3階は、赤い砂岩でできているのに対し、4階と5階は大理石と砂岩を組み合わせて建てています。5階すべてに突き出したバルコニーがあります。

デリーのメローリー地区に位置するクトゥブ・ミナールは、インドのマムルーク朝の礎を築いた(1206年から1290年)クトゥブッティーン・アイバクが委託建築しました。アフガニスタンのガズニーにあるヴィクトリー・タワー(victory tower)にインスピレーションを得て、西暦1192年に建設が始まりましたが、クトゥブッティーン・アイバクはその完成を見るまでながらえることはできませんでした。同塔は最終的に彼の後継ぎであるイルトゥトゥミシュやフィールーズ・シャー・トゥグルクによって完成されました。

クトゥブ・ミナール

フマユーン廟

手入れの行き届いた芝生に囲まれた巨大なフマユーン廟は、インド亜大陸に初めて建てられた墓庭園である壮観な遺跡です。ムガル建築術の代名詞と言える、この地域で初めて建てられたこの荘厳な墓は、愛と切望を題材にした不朽の歴史物語を語ります。ムガル皇帝フマユーンの初代妃にして女帝のハジ・ベーグム(Haji Begum)が夫の思い出を懐かしんで建てたこの墓には、同皇帝と妃の墓があり、彼らが永遠の愛を誓い合ったことが示されています。

ペルシア人建築家であるミラック・ミールザー・ギャース(Mirak Mirza Ghiyas)によって設計されたこの荘厳な建物には、世界中の旅行者がやってきます。青々としたヤシの木が立ち並ぶ芝生地に足を踏み入れると、写真撮影にぴったりな背景となる美しい噴水に歓迎されます。この庭園は、散歩道と水路によりさらに4つの主要区域に分割されており、その設計は、イスラム教の聖書、コーランに記載のあるパラダイスガーデンを模した設計になっています。4つの主要区域は、さらに36の区域に分割されています。

フマユーン廟